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世界中の旅人が集まる祭り!!死ぬ前に見なきゃ損?!タイのロイクラトン祭りが凄すぎる件について!!!*写真あり

 

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 *↑ 前回の日記 良かったらこちらも読んでください。

 

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世界中の旅人が集まるタイ最大のフェスが驚愕過ぎた!!旅行好き必見‼

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前回の瞑想三昧から一夜明けた2017年11月3日...。

皆さんも早くタイトルにも書いてある年に一度のタイ最大のフェス、ロイクラトン祭りについて読みたいと思うがその前に昨夜、興味深いことがあったので申し訳ないがそれをちょっとだけ書きたいと思う。

 

俺は10日間、人と喋ってはいけないというお寺のルールの解禁で昨夜はmeditatorと喋りまくったがまだこっちの世界にうまく適応していなかった。*興味のある方はこちら↓をクリックして読んでみてください。

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昨夜、お寺を出た後は数人のmeditatorと軽く飲んで瞑想の話や旅の話などをしていたが途中で声を出すことにエナジーが必要な感覚になってしばらく黙り込んでしまった...うぁ、俺もっと喋りたいのに頭と身体がついていかない。

キルケゴールの「死に至る病」について話をしている彼らの話にとても関心があって内容にもついていけるんだけどもう喋りたくない。完全に疲れたのである。。きっとkoiはこういう話は好きじゃないんだなぁと思われていると感じた。でも正直どうでもよかった。そこまでトコトン疲れていた…。それにビールを飲みながら「絶望」の話を哲学的に語るのはいかにもドイツ、オーストリア辺りのヨーロピアニズムを感じた。少なくともフランスやイタリア、スペイン、そして、オーストラリア、ニュージーランドでは絶対にあり得ないなと思った。*もちろん人それぞれだが。

ちなみにインド人は酔っ払うと語り出す人が多いという話を聞いたことがある。日本人は酔っ払うとどうなると彼らが聞いてきた。

俺は、ネクタイを頭に巻き付けると答えた。

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残念なことに彼らにはこの面白さがいまいち伝わっていなかった。 それでもどうでも良かった。もう一度言う...トコトン疲れていたからである...。

 

すると何人かも同じように、「I am a bit tired to speak..(ちょっと喋るのに疲れた)」と言うので、あっ!これは俺だけじゃなんだと安心した笑!

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格安で究極にタイを満喫する旅。チェンマイの寺院で10日間の瞑想をしてきたら驚くべき変化が…‼(3)

 

 

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 *↑ 前回の記事 まだ読んでいない方はこちらも是非

 

 

……

瞑想7日目。

良い意味でも悪い意味でも瞑想生活に慣れてきた。慣れというのは恐ろしい。もう夜ご飯を7日間も食べていない。それなのに身体は絶好調。無駄な脂肪もとれて腹筋も割れてきた。ダイエットには持ってこいの寺籠り生活だなんて思ったりもするほど精神的な余裕も出てきた。

朝4時起きも自然となり、普段朝ご飯をあまり食べない俺も朝6時半になればお腹も空く。1日3食は健康に良いという常識もだんだんと疑う自分がいた。何故なら1日15時間何も食べないほうが寧ろ調子が良いのだ。

食生活に関しても一体何が正しいのか、規則正しいのか色々考えさせられる。あのヨガや瞑想で有名な片岡鶴太郎氏は一日1食のみの生活をしている。もし仮に彼が100歳まで生きたとしたら健康についての定義も色々変わってくるだろう。1日3食は不健康だという事も十分にあり得るかもしれない。

話は俺の瞑想体験に戻る。

此処Wat Ram Poeng はメインホール、ライブラリー、レポートルーム、フロント、食堂が主な施設で、ほとんどの瞑想者はメインホールかライブラリーで瞑想を行う。前回紹介したwalking meditationは外でも出来るので、境内の中心部にある塔の下で行う人が多い。↓こちらがその塔

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夜になるとろうそくをたてて瞑想も出来る。とても落ち着ける環境だが蚊が多いので虫よけスプレーが必要になる。↓ *写真一番手前は一緒に10日間瞑想をしたAlex

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こちらはライブラリー↓ 実際俺が一番瞑想の時間を費やした思い出の場所

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レポーティングについてはまだ触れていなかったが、午後3時から5時の間にレポーティングと言って、瞑想者がモンクのところを訪れ一日の感想みたいなことを報告する決まりがある。モンクは日常会話程度の英語できるのでコミュニケーションは問題ない。ただこんなことも言うのもあれだが誰に対してもほとんど同じ内容を伝えていると思う。何しろ瞑想とは体験であり体験とは個人個人全く異なるものだ。impermanence「束の間」という言葉が個人的に一番心に響いた。全ての思考や考え、感情は「束の間」だと言う。人生は「儚く、そして束の間」とも言える。束の間だから出来るだけ頭に入ったらすぐ外に出す意識をしなければいけないという。束の間のものだから中にとどめてはいけないのだ。束の間とは幻想のようなものだのだ。幻想であればそれは無いに等しいものである。つまりそれによって惑わされてはいけないのだ。だから外に出すことによって心がクリアになる。

 

そして「emptiness」。日本語で言うと「空」*そらではない、くうである。よく色即是空、空即是色という言葉を聞いた人はいると思うがその「空」である。

 

前回でも少し書いたが、くうとは何もゼロを意味しているわけではない。ゼロとイチの間とも言える存在がemptinessだとモンクは表現した。

俺のモンクは幸せと不幸せのどちらでもない状態をemptinessと表現した。

人間はついつい物事を対極に考えてしまう傾向がある。例えば、love(愛)の対極はhate(憎しみ)、ポジティブとネガティブ、上と下、生と死、美と醜...例を挙げればキリがない...。 ここからはちょっと難しくなるのでゆっくり読んで理解してほしい。↓↓

 

人間99.9%と断言出来るくらいの割合でポジティブはとても良いことだと考える。同様に愛はとても良いことだと考える。当然「幸せ」「喜び」「美」これらの言葉はとてもパワーがあり人生にとても良い影響を与える。とても良いことだ。至って当たり前のことだ。幸せが良いことではないと批判する人は殆どいないだろう。

ただしここからが問題である。

99.9%の人間はそれらの対極と認識している概念をまるで悪い要素かのように認識してそれらを直視しようとはしない。直視しないどころか、それらは本来は付随しているはずの要素なのに全く別のものとして切り離している。

 

え?どういうこと?何が言いたいの?

そう、ここで言いたいことは人間がついつい見ないように蓋を閉めていること。

例えばネガティブ思考。ネガティブとは良くないことと認識してポジティブになろうとする。例えば憎しみ。憎しみとはとても良くない感情である。例えば死。死を考えないようにする。例えば不幸せ。不幸せは良くないと考える。99.9%の人間は先ほどの上記で挙げたものとは対極とも言えるこれらの概念を一部としてとらえていない。

え?まだ何が言いたいかわからない?

 

つまり「幸せと不幸は重なり合っているもので切り離して考えることはできない」のだ。同様に「生と死」「ポジティブとネガティブ」「愛と憎しみ」などなど全て重なり合っている。イメージとしては手の甲と手のひらの両面があって「手」が成り立つのと同じ。

モンクが「幸せでもない不幸せでもない境地が瞑想のたどり着くべく場所である」と言ったが、その両方も網羅したまるで宇宙の果てのような壮大なスケールの観点から理解するのが本当の幸せを理解することにつながるのかもしれないと思った。言葉で書くのは容易だがそれを体験するのは理論や理屈では無理な話だ。ここがよく誤解されるところだが、個人的には、なにもモンクが「幸せなことを考えるな」と言っているわけでは思う

幸せとは不幸と重なり合っていることを理解した上で幸せを理解すると言いたいのだと思う。こういう類の話はとても難しいし、理論、論理、理屈や科学で説明できる事柄ではないのでついつい毛嫌いしてしまう人も沢山いると思うが、少なくともこれを読んでくれている読者にはこういう世界の存在意義というのをなんとなく日常生活で意識してほしい。

何故ならこれらのことはとても価値のあるもので、とても役に立つからである。目に見えるものがクローズアップされる資本主義の枠組みの世界だからこそ余計に哲学やスピリチュアリティの重要性が挙げられると俺は思う。でなければ何故今頃になってニーチェの本がベストセラーになる?心理学や哲学は実学には全く結びつかないのにそれでも読者がそれを求めているのは何よりの証拠だと思う。

資本主義=お金、金融をベースとする価値とその重要性を表す主義だが、お金でさえも単なる「幻想」でありその幻想によって人々は狂ってしまっている。お金とは「信用」で価値が決まるのだ。「信頼」とは幻のようなもので結局はお金でさえもBuddhaの「無」に関わってくる。投資、FX、株、最近俺も始めたビットコインでさえすべて「信用」である。人の心理で価値が変わる儚いものだからこそ人々はより高度な「信用」に幸せを求める。お金を得るのは決して悪いことではないがやはり「中観思想」で捉えるべきではないだろうか。( ・´ー・`)

 

それにしても「幸せでも不幸せでもない境地とは一体どんな状態なのだろう」と暫く考えていた...。

 

そして瞑想8日目...

 

とうとう俺の身体に最初で最後の異変が起きた...!!!

確か午後2時くらいだったと思う。いつものようにライブラリーで瞑想をしていた。開始20分頃。

本当にあの時は「無」の世界に入っていた。ひたすら呼吸に意識を集中させていたがやがて呼吸にすら意識しないステージに入った*本来呼吸を意識して生活している人は殆どいないが、瞑想の場合呼吸を意識させてから呼吸の無意識状態に入る。

呼吸にすら意識しないというのは少なからず「無」の世界の入り口に突入したと俺は個人的に思う。それまでは色んな思考やマインド、感情が頭の中に入ってしまい呼吸にすらフォーカスできない。つまり呼吸のみに集中することが出来るというのは相当大変なことだ。ここまでおおよそ80時間以上の瞑想時間を費やした。せめて「無」の入り口くらいには行きたい。そんな想いだった。。

 

呼吸にすら意識しないということは全てにおいて無意識状態になった。ただし寝ているわけではない。矛盾しているかもしれないが「意識」はあるからだ。

そしてその「意識」がいきなり自分の身体全体に向けられた!!!

 

言葉では説明できないが表現としては、自分の体内の細胞(セル)を一つ一つ眺めている感覚だ。

中学生の頃理科の実験で顕微鏡を使ってミトコンドリア葉緑体などを観察しているような感覚で自分の身体を眺めていた!!

 

なんなんだこの感覚はっ!!!

 

此処で直観的にわかったことが一つあった!!

 

それは自分とは何億個という宇宙のような無数で壮大な細胞の一つ一つの集合体であり、それを自分の内側(意識)からそれらを観察しているのである。観察というよりはただ単に眺めている状態に近い。

眺めてはいるがそれは自分の内側から眺めているので、対象物が外側にある感じではなかった。

言葉では説明不可能なので写真でイメージしてほしい↓。

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 これを眺めている感覚...

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 こんな感じで自分を見ていた。自分を生物学的に眺めていた。血液の流れや僅かな筋肉の動き、血管の収縮などもイメージできた。もしあなたがこれらの写真のようなものが自分と認識したらあなたは初めにどう思うだろうか?

 

俺は直観的にこう思った...

 

...

...

人間は精神であり、その精神とは全く無いものだと...。

 

...

...

つまり何が言いたいかと言うと、色々今俺が考えていることや思考や感情全てのことは「無い」のだ。何故なら自分とはこの細胞の集合体だからだ。この細胞の集合体に意識などあるはずがない。単なる細胞だ。そしてこの細胞も本当は無いんだろうなと思った。

そしてとてもすがすがしい気分になった。時間にしておおよそ2分くらいだろうか。そしてまたマインドが邪魔をしてしまい普段の瞑想に戻った...

 

これが8日目に起こった俺の体験。これは俺の個人的な実体験なのでこれが何なのかは全くわからない。ただ俺の勝手なインスピレーションで言わせてもらうと、人生に意味はなく、自分の考える思考や感情はあるようで無いということを肌を通して理解した。

これが俺の体験...

これを読んでいる人が同じように瞑想をして同じ結果や考えになるかはわからないが別に俺はどうも思わないし人それぞれでいいと思う。なにしろ個人的には今書いた通り、何も意味はないということを感じたので特にそれに関しての答えや考えも要らないからである。(どう書いたらいいかわからないが笑)

 

その後の2日間を無事済ませてとうとう10日間の瞑想が終わった。。。

一緒に瞑想をした瞑想者達↓

 

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1日目の様子f:id:uluru-2008-koichi:20171114203719j:plain

↓ これが俺

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コースが終わった後は言うまでもなく他の瞑想者達と暫く会話を楽しんだのだった!!!

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そして次の日はタイで最大のお祭りとも言われる 超神秘的、幻想的なロイカトンフェスティバル!!

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次回はそのお祭りに行ってきた様子をブログでアップします!

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格安で究極にタイを満喫する旅。チェンマイの寺院で10日間の瞑想をしてきたら驚くべき変化が…‼(2)

 

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 ↑前回の日記*まだ読んでない方はこちらも是非!

………

というわけで続いては胡坐の姿勢で行う瞑想。これは一般的な姿勢なので馴染みがあると思う。

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 写真のポーズは此処チェンマイの寺院で教わった姿勢と若干異なる。俺は腕を自然と降ろして両手を合わせる姿勢で瞑想を行った。手の位置は色々バリエーションがあるようだか基本的に胡坐をかく姿勢は共通しているようだ。ではなぜこの胡坐のポーズなのか?

Monkに尋ねたところ、このポーズは意識を集中させやすいらしい。意識を合わせるポイントは身体の中で約22か所(後に説明)あり、そして呼吸法との兼ね合いも、昔から瞑想はこの姿勢が理にかなっているそうだ。ただし椅子に座った瞑想や前回紹介した歩き瞑想などもあるのでこの姿勢じゃなければ絶対ダメというわけでもない。一番重要な事は意識を上手くコントロールして心を集中させ、マインドを「無」に移行できるかということ。

 

このシンプルな姿勢がきついのなんのって...。普段の日常生活でほとんどこの姿勢をとらないので20分行うだけで身体に相当負担がかかる。脚は絶対痺れるので瞑想どころの騒ぎではない。3日目までは心の安定、無の境域などとは到底無縁どころか、身体全体が悲鳴をあげるほど痛くて、心の不安定が永遠に続いた。

瞑想とはとても辛いもので、身体の痛みに耐えることで「無」も境地を得るのかと思うほどだった。30分のタイマーをセットする。そして瞑想を開始する。はじめの15分程度は少しずつ慣れてきたがやはり15分を過ぎる頃になると脚が痺れ始める。背中、腰も痛いし喉も乾く。25分も経つといよいよ限界に達する。ふとタイマーを見てしまう。〔本来はダメ)。

 

まだあと5分も残っているではないか!!

 

っていうマインドが邪念となる。だからタイマーを見てはいけないのだ。もっと言うと時間という概念を考えてはいけないのである。時間とは人間が勝手につけた定義、名称、概念。1日、1年、365日、1時間…全て名称である。その名称によって人間は悩みだす。よく考えればとてもおかしなことだ。単なる名前なのにそこから苦悩が生まれる?この概念や名称によって我々は人生のほとんどが支配されているのだ。

例えば「台風」っていう言葉。台風ってそもそもなんだ?台風の中心部は実は何もない、ただの空間。その周りは確かに気圧の変化によって雨や風を生み出すもので台風とは単なる「気圧」のことである。ただ感じるだけである。台風と聞いただけで怖くなったりする気持ちはわかる。実際に台風の被害によって命を落とすケースだって十分起こりえる。

ただし台風とはやはり名称であり、ただの目に見えない「気圧」なのだ。「気圧の変化」として本質をしっかりと捉える理解ができればあなたのマインドも変わると思う。この「気圧」は目に見えないし触ることもできない!

これは「空気」と言いかえても「愛」と置き換えても同じことが言えると思う。つまり究極的に言えば、あなたが思っているようなことは大概「言葉」によってまるでそれがあるように錯覚してしまうのだ。

 

だからBuddhaは、この世の全てはemptiness「空」と考える。あるようでないし、ないようであるのだ。何もないのだ。とはいっても身体は実際に「痛い」!!それがないようであるという意味だと個人的に思う。でもあなたが思っている「痛み」という概念的なものはこの世に存在しないのである

 

この痛みでさえ単なる幻想、「痛い」という名称に過ぎないなら何故脚が思うようにように動かない?確実に普通の時の状態ではないし、痛いものはどう考えても痛い。これをすべて「無」と捉えることなど人間的にたどり着ける境地なのだろうか?

...と哲学的なことを考えているこの刹那は「痛み」を感じない。感じないというよりは「痛み」という感情に対して注意が散漫になって軽減されている。

言葉で説明するのはとても大変(というか無理)だが、例えるなら(完全に俺の実体験だが)、大好きな音楽をヘッドホンでトコトン聴いていてトランス状態になっている間に歯医者で歯の治療をすると、麻酔を注入する時の痛みや歯をけずる痛みが若干「軽減」できる。それは音楽に注意が向けられるからだ。それか他のオプションとして超ド変態のことを妄想する。欲望の果てと言っていいくらいの妄想をして何とか痛みを散漫させる。

結局は人間とは欲望の塊なのだ。そこを認めることから全ては始める。Buddhaだって煩悩を無くそうと修行をしている。きれいごとを言う人間は「欲望」を悪いものだと考えて向き合おうとはしない。だから浮気や不倫、ギャンブル、ドラッグ、その他もろもろの欲望を悪だという一言で片づけてしまう。正確には欲望や煩悩とは「悪」ではない。何故なら全ての人間がもともと持っているものだからだ。

欲望とはコントロールやバランスが必要な物質のようなものだと思う。お酒はたまには良いものだ、ただし飲みすぎではいけない。お金も使ってはいいが使い過ぎてはいけない、人間関係、恋愛などなど、何事もバランスとコントロールなのだ。yin yangのシンボルはここにもつながるのだ。そして仏教用語だが「中観思想」の理解に大きくかかわるイデオロギーでもあるのだ。

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つまり痛みでさえも軽減、或いは無くすことができるのが本当だとしたら、瞑想中の脚の痛みも、「無」の状態さえマスターすればあながち嘘ではない気がしてきた。とは言うもののやはり、、、痛い。。笑 そしていろいろ5日目に突入する。

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5日目...

 

いよいよ瞑想も後半戦...。

 

とうとう脱落者が1人出た。彼とは10日の瞑想コース後にたまたま会って、脱落した理由を聞いたら、誰とも話が出来ないこの状況を理解できなかったようだ。人生の幸せとは人と経験をシェアするという彼のポリシーがあるらしく、そのシェアにおいてはやはりコミュニケーションに重きを置いているようだ。うーーーーん...色々考えさせられる。彼のポリシーは嫌いではない。むしろとても好きだ。映画「into the wild」を観た人はわかるだろうが、人生一人で生きていくというのはなかなか幸せなライフとは言い難いものがある。やはり人と会い、経験をシェアしてこそ得られる幸せもあり、それが人生最大の幸福だという人の気持ちも理解できる。ただ此処チェンマイの寺院はそこまで究極的な状況ではない。

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10日間の限定的な期間であるのだ。この10日間をクリアできないで一体人生のどのポイントで自分のベストを尽くすというのかという自分の思いもある。それに人と話さないことがポイントではない。No talkはこの瞑想をより集中させるためのオプションであり、サイレントの重要性や集中力、そして忍耐力の向上と欲望の抑制させることだと思う。なにも人と会話をしないことはデメリットばかりではない。それに人と会話をしないことが逆に人を本質的に理解する方法だということに後に気づく...。

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続く...

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格安で究極にタイを満喫する旅。チェンマイの寺院で10日間の瞑想をしてきたら驚くべき変化が…‼

 

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 ↑ 前回の日記 *まだ読んでいない方は宜しければこちらも是非。

 初めに書いておきますがおそらく日本人でここまで仏教の国タイ、チェンマイの寺院でVipassana meditation(瞑想)を体験して具体的に日本語で書いているブログはほとんどないと思うので興味がある方は是非最後まで読んで、興味がある方にシェアして欲しいです。

…………↓↓↓

 

というわけでいよいよ旅のメインとなる10日間の瞑想をするために寺院へ足を運ばせた。場所はチェンマイ中心部から車で約15分に位置する Wat Ram Poeng( Tapotaram)という寺院。↓ 

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ところで瞑想と聞いてもパッとしない人も多いと思う。瞑想とは英語でmeditationと言い、精神状態を落ち着かせたり、リラックスさせたり、心の安定、浄化などの効果をもたらすと信じられていて、東南アジア、カンボジアミャンマー、ネパール、インド、勿論此処タイにもmeditationを学びに世界中の国の人たちが体験しに訪れる...。レベルが高くなれば高くなるほど、自分の心をコントロール出来たり、自分のエゴや欲望、マインドを消すことも出来る。impermanence「束の間」の意味を心で理解して、マインドからは決して理解できない、心の幸せを感じる人もいる。

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格安でタイを究極に満喫する旅日記②!⋆写真付

 

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 前回の日記↑ ⋆まだ読んでいない方はこちらも是非↑😁

  

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...(前回の続き)

そしてチェンマイに1年近く住む友人らと一緒に首長族の村に行く事にした。チェンマイ中心部から約1時間ほど山に向かって車を進めた。

一人当たり500バーツという超高価格だったがエレファントツアーが2400バーツを考えるとまあしょうがないかという感じで友達の分も払って村に入場した。

首長族は実はBurma(ミャンマー)族のようでタイ人ではない。ただし彼らはタイ語を話す。本来であれば彼らがタイに住むのは違法であるが、タイ政府も黙認しているらしい。もしかしたらお互いにメリットになるように黙認する対価として一人500バーツの入場料でタイ政府にcontributeしているかもしれない。

気が付くと雨が大量に降ってきた。この季節は毎日雨らしい。仕方なく俺達は首長族の家の屋根でしばらく雨宿りをした。

ふと横を見ると彼らの首につけている輪っかが置いておった。何気なく左手の3本指で持とうとしたら持ち上がらなかった!

お………重い!!!!

多分2キロくらいあるんじゃないか?!!

 

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格安でタイを究極に満喫する旅日記! *写真付


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タイ、バンコクの旅!😁

今回で4回目になるがタイのバンコクに行ってきた。タイという国は何度行っても素晴らしい国である。世界中の旅人が集まる聖地の一つと言っても過言ではないだろう。

 

食べ物のクオリティ、観光名所、オリジナリティ溢れる街並み、都会とノスタルジックなお寺との融合性、仏教味ある国民性、どれをとっても最高である。ただこの国は1度行っただけではなかなか良さがわからない。旅行客が訪れる観光名所とローカルが通う名所も当然異なるし、食べ物の種類も豊富にある。

https://www.instagram.com/p/BaMLTneDrIV/

 

https://www.instagram.com/p/BaV_hcaD_XV/

 

今回の旅の目的はチェンマイに訪れて本場の瞑想をすることと、象に触れ合うこと。そして友達がチェンマイに住んでいるので久しぶりに会うことである。

10月10日、羽田空港からマレーシアを経由してバンコクに到着した。

 

バンコクで最も格安レベルの宿を探した。1泊250bahts、日本円で約750円。その後に泊まるチェンマイの宿(99bahts) と比べれるととてつもなく高いがバンコクだから仕方ない。エリアはここ辺りにした。*写真↓


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*ピンクマル印が空港で黒がバンコク中心部。この黒丸印の中であれば不便なく歩いて買い物やフードなどを満喫出来るエリア

旅慣れしているので宿の汚さは全く気にしなかった。シャワーのお湯がでるだけで満足だった。

飛行機の移動で身体が疲れていたので仮眠をしてからPerth で随分前に出会った友達とカオサンロードで食事をした。人と話すと、人間はそれぞれ十人十色の人生であるけれど最終的に行き着く悩みはみんな一緒同じなんじゃないかと思えてきた。

100バーツで宿まで帰れるか原付タクシーに聞いて乗った。降りる時に120バーツと狭ばれたがきちんと100バーツを支払った。今考えれば100バーツでも高かったかも知れない。

タイで旅するにおいて、日本のお金の価値観、日本円を考えるとタイではとんでもないことになる。100円の差がタイの現地人にとって300円の価値であるが3分の1の価値というよりは感覚的価値観では5分の1程度に感じる。

なぜなら<夜ご飯一人前ガッツリ食べれる量>=100baht なのだ。

胃袋的価値観で言うならば吉野家で牛丼大盛りと卵、味噌汁プラスお水と同価値だ。つまり100baht は大金だ。

俺は最近、お金を大切に使うように心掛けるようにした。世界どこに行こうが質素な使い方をしようと思う。タイ=タイマッサージ、ムエタイ観戦、象に乗るツアーに行くのは観光客ぐらいだろう。マッサージでさえ1時間300バーツするのだ。


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↑*このチョコバナナRoti は25バーツ。安いところを探した

 

現地の人にとっては大金だ。300バーツ稼ぐのに5時間以上働くことが普通なので、俺達が仮に時給1000円として考えても5000円という感覚になる。物価が3分の1という数字上の理論は人々の生活基準的価値観を完全には反映出来ない。

 

そんなことを考えながら宿に着くとフィリピン人の男性がいた。時間は深夜12時を過ぎていた。薄暗い明かりのリビングに座っていると彼が近づいてきた。彼はミャンマーで働いているという。驚いたのが、職種によってはフィリピンよりもミャンマーのほうが稼げるらしい。俺はてっきりミャンマーは貧困の国という認識しかなかった。

そして彼が色々俺の仕事生活のことを聞いてくる。そして話が変なアダルト系に急展開した。しかも女性の事ではない。そして俺と対照的に座っていたが彼はスッと健やかに立ち上がり俺の横にあるイスに着席した。つまり並列的になった。

俺は、あっ… そういう事かと悟り、ゆっくりとしかし着実に部屋に戻る支度をした。

俺はオープンマインドなので同性愛者に対して一切の偏見も差別もしない。実際ゲイやレズビアンの友達もまあまあいる。ただ男の人に男の事を話すのは苦手だ。生理的に受け付けないというのが適切だろう。日本酒は好きだけどビールは苦手というのと同じ理論だ。苦手なものは苦手なのだ。ビールが不味い訳ではない、ビールが合わないのだ。

ちなみに女性が女性のことを語っているのを聞くのもなんとなく苦手かもしれない。何故なら多くの場合それらはゴシップか悪口か偏見があるように聞こえてしまうからである。

そんなこんなでお湯の出ないシャワー室に迅速に向かい、サッパリした後で急いで部屋に戻って寝た。タイはやはり違うなという怪しげな感触を得た。

 

翌朝バッパーを12時にピッタリにチェックアウトしてチェンマイ行きの寝台列車のチケットを買うために駅に向かった。バンコクはもうこれで4回目なので一日でも早くチェンマイに行きたかった。午前中だとその列車のチケットが売り切れる傾向にあるらしく、午後からだとチケットが買えるという嘘のような噂は本当だったようで午後1時になってようやくチケットをゲットした!


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午後6時10分発。。。チェンマイに向けて列車は動き出した。

車内は物凄く快適!ロンドンからきた女の子2人組とアメリカ人のおじさんと俺の組み合わせで迎え合わせになった。シートがベッドに変わり更に2階立てベッドになる。


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彼女ら言わく、ロンドンは天気が悪く人も暗いので東南アジアの旅は180度環境が違ってとても楽しいらしい。ベトナム戦争を経験したアメリカ人のおじさんはその後ボランティア活動を続け、チェンマイでも継続的に活動しているらしい。

やがて従業員らがベッドメイキングをし始めた。


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俺はすぐベッドに横になり、銀杏Boyz の新訳銀河鉄道の夜を2回連続聴いて静かに寝た。



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銀河鉄道の夜に僕はもう空の向こうに飛び経ってしまいたいあなたを想いながら♪

寝台列車ではあるけれど気分は銀河鉄道だった。

数時間後、浅い眠りから目覚めた。そして朝8時になると列車はチェンマイ駅に着いた。


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チェンマイに住む友人と再会して市内観光、お寺巡りをする。いつも思うがタイは蒸し暑い。チェンマイバンコクほどではないのでまだ助かった。日中は現地の人もあまり外に出たがらないのもよく理解出来る。出ないとチェンマイ出身の独特のあの白い肌に説明がつかない。


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*ブッダも白いお肌 


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 そして翌日俺達はミャンマー人が暮らす首長族の村へ観光することにした!

 

続く………

 


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旅好き必見!東京から沖縄へのヒッチハイクの旅シリーズ!(10)絶景ビーチ、沖縄編‼

フェリーは那覇に到着した...鹿児島からおおよそ25時間のフェリーの旅が終わった。

終わりは始まり、始まりは終わり...

旅をするとこの言葉がいつも肌に染みる。本で読んで理解するのと実際に体験して頭に描くのでは天と地ほどの違いはある…。何事も経験なしには本質は掴めないのだ...

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雲を見上げる...沖縄の雲は壮大だった。いや雲を普段みていないだけかもしれない。人間は当たり前のものが意外と見ていない。在るのに見ない、見えない...。

早速那覇市内まで歩く。そして計画していたある場所へ向かう。

 

...

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そう、レンタルサイクル屋さん。↓

NPO法人しまづくりネット-しまづくりネットへようこそ

 

実はこの9日間の沖縄の旅はチャリで沖縄を巡ろうとAlekと話していた。宿は野宿。つまりビーチとなる…。初日のみCouchsurfingというサイトでホストを市内で探してその後はひたすらチャリの旅...そんな計画だった。因みにここのレンタルサイクルはとても良かった。値段も良心的で自転車のクオリティも大変良かった。話してみると今までいろんなお客さん(悪い意味で)がいたようで最初はあまり俺達のことをまるでウォーリーを探している時のような目線で見つめていたがだんだんと話していくうちに仲良くなった。むしろ俺は今までのお客さんの話を聞いて彼に少し同情した。

たかが自転車だがビジネスはビジネス。とても平和的なビジネスだ。それでさえお客は時には冷酷でお構いなしなのだ。これは資本主義の世界では常に起こることで避けることが出来ない。自分のとって損か得かになってしまいその結果、自転車を放置してどっかに逃げるのだろう。俺はお互いがwin winになれるようにも何とか9日で沖縄を周り此処にまた帰ってくると誓った。

文章で書くとそれっぽいが、実際には借りたチャリを返す...よく考えれば当たり前の事だ...とにかくその時は沖縄という地でチャリの旅をする心でとても舞い上がっていた。

そして早速名護市へ向かい二本の足を回転し始めた...!!

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そして1泊泊めてもらえるというホストハウスに到着した。

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 彼らはとても温かい家族で、俺達を親切に迎え入れてくれた。俺は家庭の愛について正直よくわからないタイプの人間だ。もちろんそういう経験がないのだから当たり前だが、あまり家庭へのあこがれがない。こんな事を言うととても冷たく聞こえるかもしれないが、そう思う理由として俺は自分自身がまだまだ子供だということを十分理解しているからだ。自分の責任でさえやっととれるレベルなのに家族の責任なんて想像しただけで苦痛だ。家族は助け合いだから俺だけの問題ではないという考えも理解できるが、基本的に俺は自分自信に納得してから人をサポートしたり結婚をしたいと思っている。そのくせに貧困の子供達を救いたいとか、世界の平和を常に思っている。とにかく面倒くさい人間なのだ。だから結婚や家族ということにまるで関心がもてない。いずれ家族がほしいと思う時が来るとは直観的に感じるが今の段階ではない。

そういう意味ではこのホストファミリーを見ていると全くの別の価値観が目の前に広がりとても勉強になった。家族愛とかなんだか見ていて、一番近い人への奉仕のような気がしてきた...良い1日だった。

そして2日目。

早速支度を始めビーチまでチャリの旅を始めた...

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始めはトロピカルビーチだっただろうか。沢山の地元人がいてにぎわっていた。

いきなりビールをもらい、一緒に食べようと誘ってくれた沖縄の人たち。↓

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沖縄の人は毎日を楽しんでいるように見えた。人生それが一番大切ではないだろうか。

楽しむ...

 

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沖縄のビーチはもう言うことがなかった。完璧だった。Sunsetも絶景だった。沖縄にきてようやく旅の本質が少しずつ身体で理解しようとし始めた。

何故人は旅をするんだろうという答えとして俺は「本来の自分に戻るため」のような気がする。

気づかないうちに人は周りに影響されて本来の自分が少しずつ色あせていくと思う...。本来の自分とは性格とか信念とか目標とかそういうことではなくて、もっと大我的な目線で言うと、「魂」に近いと思う。

え、魂?オカルト信教、どこの信者ですか?なんていう人もいるだろうが例えば、絶景を目の前にした時に言葉では絶対表現できない感情がこみ上げる時があると思う。それを「魂」と表現できると俺は思う。つまり精神的にこみ上げてくる説明できないもの、それを「心」と表現したり「魂」と表現する。要は呼び方の問題なのだ。

例えば、自分が好きな最高の音楽を聴いた時「心」「魂」に響くと思う。そしてそこから得られるもので人は何かを学び、モチベーションにつながったり、探求心につながると思う。それが本来の自分自身に近づく行為だと俺は勝手に思っている。俺は旅をするとそういう体験をたくさんする。

ただ、肝心なことはただ単に旅をするのではなく、自分の「魂」を向上させようと意識し続けることが大切な気がする。待っていても何もやってこない、自分から積極的に行動しなければいけないのだ

そんなことを思いながら真夏の沖縄の西海岸をチャリで走っている...

辺りはだいぶ暗くなってきた。今夜はビーチで野宿。エメラルドグリーンのビーチが夜になっても輝いている…

ブンブンうるさい蚊でさえ愛おしいとも思える夜に、寝袋を広げてめをつぶった。

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ブーン...ブーン...

ブーン……ブーンンン……

気が付くとブンブンうるさい蚊に対してイラつき始めた。そして蚊スプレーを使い、「愛おしく対応することにはあるていどの限界がある」ということを学んだ。