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格安で究極にタイを満喫する旅。チェンマイの寺院で10日間の瞑想をしてきたら驚くべき変化が…‼

 

educationchannel.hatenablog.com

 ↑ 前回の日記 *まだ読んでいない方は宜しければこちらも是非。

 初めに書いておきますがおそらく日本人でここまで仏教の国タイ、チェンマイの寺院でVipassana meditation(瞑想)を体験して具体的に日本語で書いているブログはほとんどないと思うので興味がある方は是非最後まで読んで、興味がある方にシェアして欲しいです。

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というわけでいよいよ旅のメインとなる10日間の瞑想をするために寺院へ足を運ばせた。場所はチェンマイ中心部から車で約15分に位置する Wat Ram Poeng( Tapotaram)という寺院。↓ 

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ところで瞑想と聞いてもパッとしない人も多いと思う。瞑想とは英語でmeditationと言い、精神状態を落ち着かせたり、リラックスさせたり、心の安定、浄化などの効果をもたらすと信じられていて、東南アジア、カンボジアミャンマー、ネパール、インド、勿論此処タイにもmeditationを学びに世界中の国の人たちが体験しに訪れる...。レベルが高くなれば高くなるほど、自分の心をコントロール出来たり、自分のエゴや欲望、マインドを消すことも出来る。impermanence「束の間」の意味を心で理解して、マインドからは決して理解できない、心の幸せを感じる人もいる。

 

Buddha(釈迦)は菩提樹の下で悟りを開き、この世の森羅万象全てのありとあらゆることを心で体感したと言われており、それによって自分自身とは何か、幸せとは何か、人生とは何かということを理屈ではなく、心で理解したようで、それを弟子や菩薩に伝え、2000年時が経つ今もこうして受け継がれている。

 

日本でもヨガが最近人気で老若男女問わずクラスに通っていると思うが、東南アジアでは極めて文化的に根付いているのでより集中できるし絶好のチャンスだと思ったので、チェンマイでも一番定評があるこの寺院を迷わず選び10日間のmeditationに参加した。

 

話は全くもって逸れてしまって個人的な話になるが、俺は数年前からとてもBuddhaに関心があった。色んな哲学書も沢山読んだ。ニーチェキルケゴールショーペンハウアー、カント、デカルト、から孔子ピュロン、 そしてギリシャ哲学、ソクラテスアリストテレス、心理学者、アドラーユングなども一通り読んだ。最近ではチョムスキー、ピケティ、マルクスなどの政治経済や資本主義から社会主義の分野も少しずつ読んでいる。経済哲学は意外に面白かったりもする、

 

自宅にある机の本棚はむしろほとんどが彼らの本であふれているくらい読んだ。内容は理解したようでしていないのかもしれないが彼らのイデオロギーは常に自分にとって刺激的なものだ。

 

他にも武者小路実篤夏目漱石三島由紀夫太宰治、からウイリアムフォクナー、パウロコエーリョ、須藤元気、ロバートキヨサキなど色んなジャンルの本を沢山読んできたつもりだ。中でも村上春樹だけは本当に俺の心の中心にある存在で、俺は彼の全てのイデオロギーに尊敬するし、あの世界観は表現のしようがないほど美しくて切なくて奥深く、本や小説の枠をとっくに超えていて生きる薬になっている。

 

話は元に戻るが(笑)、そんな数々の本を読んできた中で何となく全てのイデオロギーや概念、価値観がなんとなく1つの方向に向かっているんじゃないかと最近思い始めていた。それに気が付いたのがBuddhaに関心を持ち始めた頃、つまり約2年前..。

そう、それは全てがBuddhaの思想に向かっているということだった。

いやいやそんなのあんたの個人的な思い込みだからなんて馬鹿にされるのを承知で書いているが、Buddhaから得られる事は俺のたかが30年前後の人生だが、強烈に響き続ける。

この世の全てのことは色即是空、空即是色であり、あるものはない、ないものはある、つまりあるもないも同じであり、全てはemptiness「空」である。だけどそのemptiness「空」は何も無いということではない。

 

例えばコップに水を注いだら当たり前だが水がコップの中に入る。そしてその水を飲めばコップの中の水が減る。でも正確には水が減っているわけではない。言っている意味がわかるだろうか???

 

正確にはコップの中の水が単にあなたの口の中に移動しただけなのだ。

そしてその水は時には個体にもなるし液体にもなる。蒸発さえする。蒸発すると人はなくなったと錯覚する。正確には形を変えただけなのだ。

これらのことを究極的に考えると最終的に行き着く答えが、全てはもともと何もない状態ということになる。つまり「空」emptinessであるこの世の全てのもの、ことは無いのである。正確に言うと釈迦は中観思想といって「空だからと言って全てのことがないわけではないのであるとないの間(中観)の大切さ」を弟子に伝えている。

 

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何もないものからは何も生まれない。これはとてもシンプルだが人間がいつの時代も常に疑問を持ち続けている究極のクエスションだと思う。いくらAIの発達が進化しようが人間が何故生まれたのかを定義することは不可能なんじゃないかと思う。

これがわからないから人々は神がこの世界を作ったと仮定するわけだ。。では神は誰が、どうやって作ったのか?そんな皮肉なことを唱える哲学者も少なくない。Buddhaはこの世は何もないと悟った。つまり何もないのだから何もうまれないのは当然だ。これは常識的、感覚的には全く理解に苦しむことだと思うが何故だか共感してしまう自分があった。

 

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俺はこれを理屈や科学的という観点からではなく、心で体感してみたかったのだ。もうこう書いている段階でマインドが俺の脳に入り込んでその地に到達することはできない。何も考えないことで無の境地に行きつくというのだ。そして文章のレベル、言葉のレベルなど特に超えて、心の境地で理解することにとても関心があった。何か生きる上で大切なことがわかって楽しい人生を過ごせるかもしれないと直観的に思ったからだ。

さらに言うならば、今までの人生とても満足しているし、俺みたいな幸せものはなかなかいないと思ってしまうくらいの人生だけれども、もっと究極的で原理的な満足性があるとしたらその領域に達してみたい!そんな冒険心みたいなものが常に頭にある。

毎日笑っているだけで人生十分幸せなんじゃないかと思う反面、資本主義の枠組みの中で違ったジャンルの幸せばかりがクローズアップされて俺自身を含めて人々はとても苦しんでいるように思える。

 

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見えるのと見えないのでは大きく違うと思う。見えないで選んでいるのか、見えていてそれをあえて選ばないのでは意味合いが全く違う。俺はそれは理屈では理解しているが、体感的には理解していない。つまりそういう境地を体験するためにも瞑想がヒントになると思った。体験、経験は全てだと思うからだ。

 

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愛とは何か、人生とは何か、楽しい、辛いとは何か?人間とは何か?言語とはなにか?

sexとは何か、仕事とは、金とは、旅とは、本とは、男性とは、女性とは何か?...

すべてのことは言葉では表現できない。それは言葉を大きく超えるとつながる何かであるからである。だから人間はスピリチュアルな生き物だと思う。だから俺は直観で生きるとか、無計画で生きるとか、脳を使わない事が好きだ。その方が自分自身に一番近い状態に持っていけるし余計な邪念や思考が入らない。よく誤解されてしまうのが、へえあなたは仏教徒なんだと言われる。...が別に宗教にも興味がないし、神の存在の意義などどうでもよい。Buddhaから学ぶことは大いにあるが別にBuddhaを崇拝するわけでもないし、彼に祈りを捧げることを目指しているわけではない。もっとも真の仏教徒はBuddhaと宗教は一切関係ないとも個人的に思うし、Buddhaのために命を捧げることを目指していないとも思う。ただ探求したいのだと思う。哲学的に生きたいだけというのが一番近い表現だと思う。

俺もそれにあてはまる。ただ単純に人生楽しく生きてもっといろんな経験がしたいだけだ。

そんなこんなでくだらない長い長いイントロダクションはここまでにしていよいよ実際に俺が体験したmeditation courseの内容を書きたいと思う。

 

 

1日目…

 

 朝9時に寺院に到着。これからの10日間の内容を簡潔に説明される。外国人も沢山来るので受付の人は簡単な英語も話せる。約20人の参加者が集まった。イギリス、フランス、チリ、メキシコ、ハンガリー、香港、中国、アメリカ人、当然日本人は俺だけ。男女比は3:7くらい。女性の方が多かった。

 

ルールが説明される。沢山あるのでここでは全ては書かないが以下の通り↓

 

1 朝4時起床。パ―リ語のchantingを約20分行う。

2.  朝食6時半、昼10時半。それ以降の食事一切禁止。ただし、ミルク、ヨーグルトは可。

3. 読書禁止、文字を書くことも禁止。

4. 人との会話一切禁止(修行士との会話は可)*monkのこと

5.人とのアイコンタクト禁止

6. 男女別々の食事、行動

7.携帯電話、電子機器全て禁止、起床は時計のアラームか寺院の鐘で起床

8.一日最低約8時間の瞑想

9.すべての生き物を殺すことを控える

10.歌うこと一切禁止

などなど...です。

 

つまり、食べる、寝る、瞑想だけの生活。*ちなみに先に書いてしまうが10日目俺は瞑想11時間超えを達成した。寝るのと食べる時間を合わせても瞑想の時間が長かった!!

 

初日は朝9時から始まったのでこの日は瞑想6時間という設定で行った。

ここの瞑想はvipassana meditationといって、集中力を上げ自分自身を落ち着かせる目的と、自分自身のawareness(自分という存在をスピリチュアリティ的に理解する)目的の2種類があり、俺は後者のタイプを選んだ。

瞑想方法も2種類あって、1つはsitting meditation,もう1つはwalking meditation。

sittingはご存知のタイプで胡坐をかいて座ること。何故あぐらの姿勢かというのは後から色々理由がわかったので後に説明する。

walkingは1歩1歩とても長い時間をかけて歩きながら瞑想すること。正確には歩くではない、なにしろ5メートルの距離を2分以上かけて歩くからだ。文章にするのはわかりずらいので写真で見てほしい。足をあげて次の一歩に行くのに3ステップある。

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1.まず足を起こす。(lifting)

99.9%の人間が歩くときにこの動作を意識することはないだろう。踵をゆっくりと地面から離す。この意識が自分自身を理解することと大きく関わるようだ。そして踵が完全に地から離れ足首が↑に上がったらところで膝のあたりを集中させて膝をゆっくりしかし着実に上げる。[raising] そして前に足を移動する。ここまでの動作時間は約15秒くらい。歩くということは原始的観点で言うととても大変なことなのだ。

そしてゆっくりとその足をおろす。ただ降ろすだけではない。かかとならゆっくりと降ろす。かかとが着地したらそこを軸にゆっくりと意識を集中させて土踏まずから指先にかけてさらにゆっくり降ろす。(dropping)

そして最後に(placing)として足を完全に地に着ける。

この作業を15分セットで行う。3日目以降は20分、25分、30分と時間が増えて、10日目には50分セットで行う。断っておくが50分終わってすぐsittingの方も50分行い、さらにもう一度50分これを行い、さらにさらにsittingを50分行う。これで1セット(泣)

つまり1セットは50分×4=200分。200分は3時間20分。それを1日に3セットすると10時間。それにさらに1時間足してようやく11時間。ひたすら瞑想瞑想瞑想瞑想瞑想...。

この究極的な体験をあなたはイメージできるだろうか??????!!!!!

勿論無理です。。何故なら体験、経験こそが全てだからです。そういう意味では悟りも体験というのがとても道理にかなう。

 

次は胡坐をかくsitting meditationとその後の自分の変化について書きたいと思います。

...(続きは一番下のリンクをクリック)

 

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