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格安で究極にタイを満喫する旅。チェンマイの寺院で10日間の瞑想をしてきたら驚くべき変化が…‼(2)

 

educationchannel.hatenablog.com

 ↑前回の日記*まだ読んでない方はこちらも是非!

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というわけで続いては胡坐の姿勢で行う瞑想。これは一般的な姿勢なので馴染みがあると思う。

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 写真のポーズは此処チェンマイの寺院で教わった姿勢と若干異なる。俺は腕を自然と降ろして両手を合わせる姿勢で瞑想を行った。手の位置は色々バリエーションがあるようだか基本的に胡坐をかく姿勢は共通しているようだ。ではなぜこの胡坐のポーズなのか?

Monkに尋ねたところ、このポーズは意識を集中させやすいらしい。意識を合わせるポイントは身体の中で約22か所(後に説明)あり、そして呼吸法との兼ね合いも、昔から瞑想はこの姿勢が理にかなっているそうだ。ただし椅子に座った瞑想や前回紹介した歩き瞑想などもあるのでこの姿勢じゃなければ絶対ダメというわけでもない。一番重要な事は意識を上手くコントロールして心を集中させ、マインドを「無」に移行できるかということ。

 

このシンプルな姿勢がきついのなんのって...。普段の日常生活でほとんどこの姿勢をとらないので20分行うだけで身体に相当負担がかかる。脚は絶対痺れるので瞑想どころの騒ぎではない。3日目までは心の安定、無の境域などとは到底無縁どころか、身体全体が悲鳴をあげるほど痛くて、心の不安定が永遠に続いた。

瞑想とはとても辛いもので、身体の痛みに耐えることで「無」も境地を得るのかと思うほどだった。30分のタイマーをセットする。そして瞑想を開始する。はじめの15分程度は少しずつ慣れてきたがやはり15分を過ぎる頃になると脚が痺れ始める。背中、腰も痛いし喉も乾く。25分も経つといよいよ限界に達する。ふとタイマーを見てしまう。〔本来はダメ)。

 

まだあと5分も残っているではないか!!

 

っていうマインドが邪念となる。だからタイマーを見てはいけないのだ。もっと言うと時間という概念を考えてはいけないのである。時間とは人間が勝手につけた定義、名称、概念。1日、1年、365日、1時間…全て名称である。その名称によって人間は悩みだす。よく考えればとてもおかしなことだ。単なる名前なのにそこから苦悩が生まれる?この概念や名称によって我々は人生のほとんどが支配されているのだ。

例えば「台風」っていう言葉。台風ってそもそもなんだ?台風の中心部は実は何もない、ただの空間。その周りは確かに気圧の変化によって雨や風を生み出すもので台風とは単なる「気圧」のことである。ただ感じるだけである。台風と聞いただけで怖くなったりする気持ちはわかる。実際に台風の被害によって命を落とすケースだって十分起こりえる。

ただし台風とはやはり名称であり、ただの目に見えない「気圧」なのだ。「気圧の変化」として本質をしっかりと捉える理解ができればあなたのマインドも変わると思う。この「気圧」は目に見えないし触ることもできない!

これは「空気」と言いかえても「愛」と置き換えても同じことが言えると思う。つまり究極的に言えば、あなたが思っているようなことは大概「言葉」によってまるでそれがあるように錯覚してしまうのだ。

 

だからBuddhaは、この世の全てはemptiness「空」と考える。あるようでないし、ないようであるのだ。何もないのだ。とはいっても身体は実際に「痛い」!!それがないようであるという意味だと個人的に思う。でもあなたが思っている「痛み」という概念的なものはこの世に存在しないのである

 

この痛みでさえ単なる幻想、「痛い」という名称に過ぎないなら何故脚が思うようにように動かない?確実に普通の時の状態ではないし、痛いものはどう考えても痛い。これをすべて「無」と捉えることなど人間的にたどり着ける境地なのだろうか?

...と哲学的なことを考えているこの刹那は「痛み」を感じない。感じないというよりは「痛み」という感情に対して注意が散漫になって軽減されている。

言葉で説明するのはとても大変(というか無理)だが、例えるなら(完全に俺の実体験だが)、大好きな音楽をヘッドホンでトコトン聴いていてトランス状態になっている間に歯医者で歯の治療をすると、麻酔を注入する時の痛みや歯をけずる痛みが若干「軽減」できる。それは音楽に注意が向けられるからだ。それか他のオプションとして超ド変態のことを妄想する。欲望の果てと言っていいくらいの妄想をして何とか痛みを散漫させる。

結局は人間とは欲望の塊なのだ。そこを認めることから全ては始める。Buddhaだって煩悩を無くそうと修行をしている。きれいごとを言う人間は「欲望」を悪いものだと考えて向き合おうとはしない。だから浮気や不倫、ギャンブル、ドラッグ、その他もろもろの欲望を悪だという一言で片づけてしまう。正確には欲望や煩悩とは「悪」ではない。何故なら全ての人間がもともと持っているものだからだ。

欲望とはコントロールやバランスが必要な物質のようなものだと思う。お酒はたまには良いものだ、ただし飲みすぎではいけない。お金も使ってはいいが使い過ぎてはいけない、人間関係、恋愛などなど、何事もバランスとコントロールなのだ。yin yangのシンボルはここにもつながるのだ。そして仏教用語だが「中観思想」の理解に大きくかかわるイデオロギーでもあるのだ。

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つまり痛みでさえも軽減、或いは無くすことができるのが本当だとしたら、瞑想中の脚の痛みも、「無」の状態さえマスターすればあながち嘘ではない気がしてきた。とは言うもののやはり、、、痛い。。笑 そしていろいろ5日目に突入する。

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5日目...

 

いよいよ瞑想も後半戦...。

 

とうとう脱落者が1人出た。彼とは10日の瞑想コース後にたまたま会って、脱落した理由を聞いたら、誰とも話が出来ないこの状況を理解できなかったようだ。人生の幸せとは人と経験をシェアするという彼のポリシーがあるらしく、そのシェアにおいてはやはりコミュニケーションに重きを置いているようだ。うーーーーん...色々考えさせられる。彼のポリシーは嫌いではない。むしろとても好きだ。映画「into the wild」を観た人はわかるだろうが、人生一人で生きていくというのはなかなか幸せなライフとは言い難いものがある。やはり人と会い、経験をシェアしてこそ得られる幸せもあり、それが人生最大の幸福だという人の気持ちも理解できる。ただ此処チェンマイの寺院はそこまで究極的な状況ではない。

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10日間の限定的な期間であるのだ。この10日間をクリアできないで一体人生のどのポイントで自分のベストを尽くすというのかという自分の思いもある。それに人と話さないことがポイントではない。No talkはこの瞑想をより集中させるためのオプションであり、サイレントの重要性や集中力、そして忍耐力の向上と欲望の抑制させることだと思う。なにも人と会話をしないことはデメリットばかりではない。それに人と会話をしないことが逆に人を本質的に理解する方法だということに後に気づく...。

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続く...

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