海外から発信する変態旅ブログ

海外で旅をして生活する日本人のブログ

旅好き必見!東京から沖縄へのヒッチハイクの旅シリーズ!(3)

 

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 前回の日記↑ *まだ見てない方は先にこちらをお読みください。↑

 

....ということで大阪を観光する。

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大阪は何度か行ったことがあるので、道頓堀でたこ焼きを食べたり特に目的もなく適当にフラフラ歩いていた。Alekもショッピングに一切興味がないのとミニマリストな性格だがTechno音楽が大好きということなので道頓堀付近にあるALZARというクラブにいった。

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そして京都の銀閣寺でコンビニで買った弁当を境内で食べていいか中国人の観光客に聞くも無視されていたGermanのJohannと友達になり、此処、大阪のテクノクラブで待ち合わせした。

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彼もドイツの学生で、台湾でインターンシップの就職をするらしい。俺の周りだけかもしれないがやはりヨーロッパの学生は国際的な気がする。Alekもアメリカや中国で6か月のインターンを経験していたし、後に会うフランス人も香港で銀行員としてインターンをしていた。そしてクラブと聞くとなんだか若くてちゃらちゃらした人が行く場所のイメージがあるが、日本で言うと、居酒屋やカラオケ感覚だと思う。音楽もEDMというよりは、トランスやテクノ、ハウス系が人気なようで実際に此処ALZARを選んだ理由もそうだった。

因みに音楽は最高にカッコよく、箱も薄暗いベルリンのundergroundのような感じだった。ちなみに踊っていたのはうちらだけだった。この日は土曜日だったが何故かほとんど人がいなかった。テクノを聴きながら、外国人は日本人に比べて、新しい友達を作ったり、新しい経験を追求する”探求心’みたいなものが長けているなということを考えていた。

でも日本は島国で農耕民族なもんで、決まった土地を自分たちの住まいとして定着させる文化もあるし、地理的にも他国との関わりもないのだからそれは背景的に考えても当たり前だとは思う。だから日本人である俺が海外の文化的価値観を理解するには随分時間がかかるし、彼らの愛国心や政治的哲学を話しても、なかなか分かり合えないと思う。それでも知ろうとする外国人達が旅行であれ、仕事であれ、日本に来日して楽しむことは本当に嬉しい。

だから俺も自分の知らない国に行って、色んな人と会って、色んな景色を見て、色んな経験をしたい。

そんなことを考えながらtechnoをガンガン聴いて大阪をあとにした。

明日からまたヒッチハイクの再始動!

朝5時半にバッパーに戻りアラームを午後1時にセットして、いよいよ広島に向かうぞという決心した5分後には爆睡した...。

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続く...

旅好き必見!東京から沖縄へのヒッチハイクの旅シリーズ!(2)

 

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 前回の日記↑ ⋆まだ読んでいない人はこちらを先に↑

……

気づけば此処は名古屋。昨日まで東京にいた俺は「ヒッチハイクは意外に余裕だな」と感じていた。明日には鹿児島まで行ってしまったらどうしよう、なんていう余計な心配までしていた。

先に書いておこう。今回のヒッチハイクで一番きつかったのはこの2日目だ。結論から言おう。名古屋で全く車が捕まらず、真夏の炎天下の中10キロのバッグとテントを抱えたまま合計20キロを歩いた。 気が付くとTシャツが汗でビショビショで絞れるほどだった。さすがのAlekも疲れたと言っていた。そんなことに全く反応できないほど俺は疲れていた。

結局一般道路では全く鳴かず飛ばずなので、高速道路に向かう事にした。文章で書くと一瞬だが徒歩で高速道路に入る方法はとても大変でたった一つしかない。

そう、それは裏からサービスエリアに入る作戦。

名古屋では徒歩で着けるサービスエリアがほとんどない。そういう理由で20キロ歩くはめになった。Google Mapを頼りに人通りのない山やトンネルを歩いてようやくついた。

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気づくと、昨日大家族と別れたSAに着いた。つまり昨日の場所に戻ったのだ。やれやれと俺は思った。5時間以上歩いて昨日と同じ地に着くくらいなら、昨日SAでテントを張って寝るべきだったと正直思った。俺はマラソンの為にトレーニングしにきているのではないのだ。

しかしここから怒涛の追い込みをみせる。

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高級車をターゲットに一気に京都に到着することが出来た!

そしてその日はバッパーに泊まり、夜の清水寺に無計画で観光した!

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京都の夜はとても静かだがとても風情があり言葉では表現できないものを肌で感じた。

中学生の修学旅行で来た時には絶対にわからない京都の素晴らしさを知った。

 

次の日は歩き好きなAlekを考慮してバスをほとんど使わず京都観光した。

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パッバーから銀閣寺に行った。もう1時間は歩いただろう。汗がとまらない。

この絶景の中でおれはなんでこんなに歩く旅に出ているのだろうと不思議な気持ちになた。しかもポーランドからきた女の子と。

そして彼女が相当気に行ったかき氷を食べ、どうやって大阪まで行くかを考えた。

二人で相談した結果、京都から大阪にヒッチハイクでいくのってちょっとおかしくない?という結論に至った。そう、僅か電車で50分、400円程度の運賃で行ける電車がある。臨機応変に考え、京都から大阪までは電車で行った。

大阪でバッパーも見つけ次の日は大阪市内を観光した...。

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大阪での朝飯。↑ スイカ、水、くるみパン。ここまでで体重が約3キロ落ちる。

続く。

 

 

旅好き必見!東京から沖縄へのヒッチハイクの旅シリーズ!(1)

旅好き必見!東京から沖縄へのヒッチハイクの旅シリーズ!(1)

2017年の夏。俺はニュージーランドから日本に帰ってきた。それは長い旅をしたかったからである。今年の東京の夏は21日連続雨という異常な8月だった。そんなジメジメした雨の中、8月15日、俺のヒッチハイクの旅が始まった…。

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1日目 / 東京の用賀
早速ヒッチハイクのメッカとも言われる東京の用賀に向かった。最小限の荷物が入ったリュック(*写真下)とコンパクトなテントとレインジャケットを羽織って、小雨日和の用賀駅から高速インター付近の通りまで歩いた。☺️

 

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そしてここ用賀から、ポーランドから遥々日本に来た大学院生のAlekという子と一緒にヒッチハイクするという出来事になった。*写真上の女の子

彼女はこれまでトルコでヒッチハイクや、アメリカそして多くのヨーロッパを旅してきたwanderlust であるようだが、フランス語、英語、スペイン語ポーランド語、中国語が堪能で今はドイツ語を勉強中だという。

実は彼女との出会いがきっかけで俺は言語が見いだす可能性に気づき、後のフランス語を習得する自分の決意に繋がった。

そんな俺の決意などはさておき…

最初に乗せてくれた人はネパールの日本大使館で働いた経験がある男性。一人で静岡に行くという。さすがヒッチハイクの名所というだけあってここまでの時間おおよそ30分。Alekの容姿が役立ったんじゃないかと半信半疑だったが。まあ結果オーライの順調な旅が始まった。

ヒッチハイクが初めての俺はとりあえず運転手とのコミュニケーションを大事にしようと思った。あまり話したがっていない素振りであればこちらも対応するし、ノリが良く話しかけてくれる感じであれば多少疲れていても臨機応変に対応するつもりでいた。何しろタダで乗せてもらっている立場なのを忘れてはいけない。と思った。

彼の場合話しかけると運転に支障がきたすと察した。車に乗ってから約30分、気づいたらヒッチハイクを始めた道に戻っていた。どうやら道に迷っているのとうちらを乗せて緊張しているようだ。

やれやれ。と感謝の念を感じながらも高速に乗るまでは無言でいようと決意した。

そしてふと隣を見るとAlekは余裕で寝ている。もう旅人感いっぱいだった。初日のヒッチハイクで車で熟睡。ゆっくり行こうぜ。彼女が無言でそう言っているように見えた。

おれは窓からどんよりと雲に覆われた江ノ島海岸を眺めていた。

そして気づいたら静岡の沼津IC に着いていた。
「ここなら名古屋方面に行く車も止まるし大丈夫ですよ」と彼は言った。
この段階では失礼ながら東京よりも晴れているくらいしか変化がなかったがヒッチハイクのスタートを一緒にしてくれた彼に感謝をして記念に写真を撮り、別れた。

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そして沼津ICでヒッチハイクを再開した。ものの僅か15分、Alekが車を止めてくれた。止まったのはまさかのバス!大家族なのでバスをレンタルしてるのだと言う。ようやくヒッチハイク感が出てきた。中に入ると10人以上のやはり大家族だった。

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廉太郎君。小学生でサッカーをしているらしい。俺もサッカーをずっとやってるので色々話した。メッシやネイマールという言葉で子供が笑顔になれる。サッカーは相変わらずすごいスポーツだ。
他にも女の子がいてAlekに関心が集まった。彼女は何人。好きな食べ物は、好きなスポーツは、嫌いな食べ物は…?… 当然俺が同時通訳するわけだがそれだけで1時間が過ぎて喉がカラカラになった。すると廉太郎君がうちらにお茶を差し出した。なんというおもてなし!流石日本!

Alekは日本人やさしさと礼儀にひどく驚いていた。これは俺も理解できるが礼儀に関しては日本人のレベルはちょっとなかなかない。ヒッチハイクを通してさらに評価があがった。人によるよっていう人がいるが全体のレベルが高いということ。しかもそれが日本人は無意識に高いので外国人はよりそれを察するのだと思う。

たわいもない会話をしてあっという間に時は過ぎる。そしてあっという間に名古屋付近につく。彼らとは名古屋近くのIC で別れた。とても良い出会いだった。


やがてそこから市内まで行く車をヒッチハイクして初日は名古屋城でテントを張って初日を終えた。テントは蒸し暑く、捨ててしまおうかと思った。まだ初日なのでそんな事も出来ず、極度の暑さで一睡もせずに2日目に突入した。

 

 

 

 

 

 

生まれて初めて海外に行った。イギリス、ロンドンへ!

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俺がはじめて海外に地を踏んだのは大学4年生の夏休みの頃だった。日本では大学3年生から4年生の夏にかけて就職活動をする。ちなみに海外の大学ではこの時期にインターンシップや1年の休暇をとって海外に旅行をしたりするらしい。という話を聞いて、じゃあ2か月くらいLondonに留学しようと決心した。

俺は時期も時期なので色々考えていた。この先卒業して何をしたいのか、そして何の仕事をしたいのか。

決まっていないのに就職もしたくなかったし、納得したレールを自分で引いてその道をを進みたかったのだと思う。そんな想いもある程度、短期留学の決心につながった。

 

この話は今からもう10年以上経つが、この決断は我ながら最高の決断をしたと思う。

誤解しないでほしいのは、それは留学が良いという意味ではなく、周りに流されず自分で決めて自分で行動したことが良かったと思う。まあイントロはここまでにしてイギリスの生活について触れたいと思う。

 

パスポートも持っていない、海外に行ったこともない、英語はとりあえずTOEIC600点の大学4年生の俺がロンドンのヒースロー空港に着いた。

ああ、これがイギリスか、これが海外かという漠然とした気持ちで税関を通り抜け留学斡旋会社の人と待ち合わせをする。そして今考えればアフリカ系イギリス人(おそらく移民してきた)の家でホームステイすることになった。

家にいても誰とも会話ができないし、ホストファミリーも俺のことに全く関心がない。おそらくエージェントからお金をもらっていて小銭稼ぎで俺が呼ばれたんだなと勝手に推測していた。そしてあの陰気な家が嫌だったので電車にのって初日からロンドン市内に向かった。

ロンドンはいつも曇っていると聞いたが本当だった。

Zone3エリア(ハンガーライン)からcityまで40分くらいだろうか。Tubeという地下鉄に乗る。黒人も沢山いて何となく地下鉄の雰囲気は暗い。因みにこの2年後にオーストラリアに留学する俺だが、オーストラリアの方がはるかに人も天気も雰囲気も明るい!(はじめて留学するならオーストラリアやニュージーランドの方がおすすめかも)

 

俺は市内の語学学校に通った。英語が喋れないくせに文法が海外の人に比べて出来るのか?intermediateのクラスに入った。いやいや確実にelementaryだよ俺のスピーキングは。「やれやれ。」と俺は村上春樹になった気分だ。

 

まず自分の語学力の無さと周りの英語力に圧倒されて毎日授業に参加するのが鬱になった。俺は理解できないところを理解しようとする気持ちはあるが、あまりにもそれが連続して長い時間継続したので鬱になった。多分はじめて留学した人はこの気持ちがわかるはず。絶望感と緊迫感。また先生がいつ自分を指してくるのがわからないのでとりあえず俺を当てないでくれということを祈りながら授業に参加した。そんな生活が2か月続いた。

今考えればとても苦い経験だったしあの英語に対する恐怖心みたいなものもいまだに覚えている。でもこの経験が全てのはじまりだった。あの時イギリスに行く決断をした俺にありがとうと言いたいと心の底から思っている。

 

これを読んでいる人の中でイギリスに興味がある、オーストラリア、ニュージーランド、海外の文化、英語に興味がある、留学に興味があると思った人がいたら引き続きこの俺のブログを読んでほしいと思う。僕はこういう自分の苦い経験がやがて自分に+になって返ってくることを実体験を通してわかったので一人でも多くの人に読んでもらってモチベーションをあげたいと思う。

 

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大自然、ニュージーランドで生活する!ついに永住権を取る!

 

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前回の記事↑

...

そしてある日、移民局から1通のメールが届いた。

IELTSを4週間以内に再度受けて下さい、overall 6.5以上がMinimum Requirementです。

IELTSとは英語能力検定のこと。細かいことを書くとキリがないが俺の場合このテストを免除できるはずだった。I

ところがほんの小さな手違いのおかげでテストを受ける必要になった。本当に俺のニュージーランド人生は「やれやれ」だった。

ニュージーランドは2月が夏ということで仕事がとても忙しかった。そんなIELTSを受けるのは精神的に応えた。結局急遽テストが受けれる会場(車で6時間)で試験の予約を確保してその3週間後にIELTSを受けた。それと万が一の為に、俺の英語力が仕事に全く支障がないことを証明するreference letter をマイケルやレセプションの人に頼んでいたのでそれも同時に準備した。

結果その手紙を出したら移民局はあっさりとacceptした。その数日後俺のIELTSの結果が届いたがoverall 6.5ということでいずれにしてもOKだったが改めてプランBの重要性を感じた!

 

これは生きる上でもビジネスでも大切だと思う。プランAを突き進みつつ、万が一のためにプランBも頭に入れて行動する。プランAが完全にダメだと判断した場合、プランBにシフトしながら一番避けたいこと(プランC)を考え、いかなる理由もそれを避けるように考えまくる。そして行動する。

俺は幸いにもプランAとBで常に結果が出ているがいずれにしてもプランAはプランB以上に力を入れる。(当たり前か)

ここでやっかいなのがネガティブ思考。何故かと言うと「もしかしたら~」とか考えるとキリがない。キリがないという事はどこで落ち着くのか自分でも制御不能になるのでループし始める。それはこのプランがダメだった場合こうすれば大丈夫といった考え方とほとんど変わらないので「計画性」と「ネガティブ思考」はある意味シンクロする。

要は「計画性」のある人はある程度「ネガティブ思考」になる必要がある。ここでネガティブ思考にハマりすぎると、計画どころか全く起こりえないだろうことも想像してしまい、単なる時間の無駄になる可能性が高い。未来のことを一生懸命考えても時にはなるようにしかならない。英語で言うと「go with the flow」”身を任せる”ことも非常に大切なわけで、そのバランスが意外と難しい。

計画性のある人の最大の弱点は、計画通りに行かないとそれ以外の事が起こった場合の対処ができない傾向にあると俺は想う。そして伴いストレスが溜まると思う。その反面しっかりと考えてから行動するから、ある程度の結果は伴うと思う。

適当に身を任せる人の最大の弱点は、何が起こるか全く予想がつかない結果を生み出してしまう事だろう。会社にこんな人がいたらたまったもんじゃないだろう。その反面、考えずに自然に行動する分、様々な状況に対応できる強さや自信が養われるだろうと思う。

村上春樹ノルウェイの森の作品で書いた、「死は生の対極ではなく、生の一部として存在している」と言ったように、計画性と身を任せる2つは決して対極ではなく、身を任せる一部として計画性が存在していると思う。

 

そんなわけではじめてニュージーランドの地に足を踏んだ日から約1年...

こうして俺はニュージーランドの永住権を取った。

牛乳を飲もうとしたら生クリーム、(しかもホイップ)だったかのようにとても濃厚で凝縮した1年間だった。とりあえず日本以外で生活できる拠点を作ることができて幅が広がったとは思う。

それでも自分の目標を達成した点では素晴らしいことだと自画自賛する反面、次の目標を設定するのに幾分時間がかかり、自分の成し遂げたいことを見つける生活が始まった。

これを読んでいる人の中にいるかも知れないが、人は一度ある目標を達成すると今度は新しい目標を立てる傾向にあると思う。そうするとその目標以外のものが見えなくなってしまう(スコトーマ)がある。俺はそれを非常にシビアに考えなければならないと思っている。もしかしたら俺は自分自身に言っているのかもしれない!

だから目標を設定する際には必ず「自分がやりたいこと、楽しいこと」にしたいと思う。これを読んでいる人も色んな目標を立てて「自分がやっていて楽しいこと」を続けてほしいと思う!そして俺もそう思い、2015年の春、早速動き出した!

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大自然、ニュージーランドで生活する!生き残りをかけたサバイバル生活!(2)

 

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前回の日記↑

 

そして悪魔の6か月が始まった。

まずはワークビザの切り替えの件だった。ここでワーホリのビザについて簡単に説明したい。このワーホリビザは通常1年間のみでそれ以上は滞在できない。つまり1年後に日本に帰国しなければならない。永住権をとる方法はおれにはたった一つだけしかない。

1年以内にワーホリビザからワークビザに切り替えてそしてワークビザから永住ビザを取る。

2月にニュージーランドに入国したので頭の中では5月から6月にはワークビザに切り替えたいと計画していたが物事は予定通りにはなかなかいかない。

6月の時点でemployerにワークビザの話をした。彼は「もちろんOKだよ、でも君のワーホリビザはまだ8か月も残ってるんだよね?まだ大丈夫なんじゃない?」と言った。

これはいわゆる後回しにさせる作戦である。ぎりぎりになってやっぱりサポートできないなんて言われたらもう終わりである。人に期待してはいけないのだ。

だからと言って何度もしつこく言うと機嫌を損ねて「君をサポートできない」という気がした。簡潔に強く言うことと言うタイミングをうまく計算するのが精神的に相当疲れた。

 

他にも書類集めに相当苦労した。犯罪履歴証明書、IELTS、employment statement、qualificationのcertified copy などなど。その数は100枚以上になった。

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そんな流れの中で嫌な出来事が起こった。俺のemployerが急遽人事異動になった...。代わりにオージーの人が代行するらしい。

「やれやれ」と思った。何となく嫌な予感はしていた。ニュージーランドでは地方で働く場合、冬になると観光客が減り仕事も減る。つまり人件費をカットする必要があるのでよくありがちなことだ。

俺は彼が異動する2週間前に「ワークビザを申請するのでそれに関わる手紙と申請書の記入をしてほしい」と頼んだ。

実際に彼がそれにあたってする内容は大したことではない。ものの30分程度で終わることであり、申請書はHRが担当するので彼の仕事ではない。彼に出来るだけスムーズにやってもらえるようにそのこともきちんと説明し、いかにも彼のしなければならないことはこれとこれとこれだけという風に簡潔に説明した。

俺は3日でやってほしいと言った。実際には30分で終わることだからやろうと思えば、今日中にでも余裕でできる。でも実際には俺は2週間以内で終われてくれればよかった。それを3日でお願いすることによって10日以上余裕をもっていた。

 

何度も言う。人に期待してはいけないのだ。

 

それから2週間が経った。彼は全く何もしてくれなかった。HRにされ頼んでもいなかった。俺はその件について何故してくれなかったか尋ねた。もう半ばやけくそだった。

そして異動になる直前に彼はややイライラした口調で言った。「代わりに入るマイケルに頼んでくれ。」

でもこういう現実は十分考えられる出来事であったはず。

俺は一体何を学んできたのだろうと、とうとう自分自身にイライラし始めた。

 

ところがこの出来事が逆に俺にとって転機となった。

 

そのマイケルがとても親切で優秀だったからだ。結論から言う。彼がワークビザの全てを責任をもって対応してくれ、そのおかげで俺はワークビザを取った。俺は救われた。大げさに言えば、捨てる神あれば拾う神ありだった。

そのワークビザは最長3年間滞在可能ということで少しはほっとした。ただこの時点で俺は永住権を申請していた。物事にはノープランとプランが必要なことがある。俺はこれに関しては、厳密なプランが必要だったと考えていたからだ。

 

ついに第一関門を突破した。これで永住権の道がまた近づいた。前にも書いたが、何故永住権を目指すのかは自分にも正確にはわからなかった。それはある程度の直観と意地みたいなものだけであったかもしれない。もしかしたらその過程が良いのかも知れない。何かに向かってさえいればその先が何であってもそこまで変わらないのかも知れない。

 

そんな生活も約1年...。いよいよImmigrationから1通のメールが入った。

 

続く

 

 

大自然、ニュージーランドで生活する!初めの半年間の苦悩!ワーホリからワークビザへ!

 

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前回の記事↑

 

 

仕事もだいぶ慣れてきた。休みの日にはホテルの目の前にある絶景が心を癒してくれた。⇊

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俺が住んでいたオーストラリアPerthには山はなかった。壮大な湖や渓流もなかった。でも此処ニュージーランドは日本に近い気候だし温泉もあるし、山も川も湖もある。いい意味でオーストラリアとは同じ自然でもその形態が全く異な1っている。

 

話は仕事に関わるが、俺はホテルでシェフとして働いているわけだが、正直色んな経験をしたかった。冬になればおそらくだいぶ暇になると推測して今のうちにレセプションの仕事も積極的にやる必要があると思った。でなければ俺は必要な人材として扱ってもらえない。そうともなればビザももらえないだろうし永住権もとれない。Employerはいつでもビザのサポートをすると口頭で言ってはいるがそんなことは一切当てにできないことはオーストラリアで嫌というほど味わった。

海外では誰にも期待してはいけない。自分を信じて自分に期待する。これが海外で学んだ生き方でもあったからだ。

今だから言える話だが、俺が働いてから約半年ほど経って、若いインド人のシェフが俺の職場に就職した。employerもインド人だからよくある話だ。事実、ニュージーランドのオーナーやemployerはインド人が多い。

彼はジャス(ニックネーム)と言い、ちょっとおっちょこちょいでシェフとしてはまだまだだが気さくで陽気でとても良い奴だった。素直な奴だったのですぐ仲良くなった。(写真⇊)

 

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彼は貧しい母国から自分や家族をより良い国に移民できるようにニュージーランドに永住しようと計画していた。これはオーストラリアでもよく見られるケースだと思う。

彼は素直すぎるのが仇となって、employerに巧みに操られていた。俺が此処で言いたいことはわかる人にはわかるとは思う。

海外で働くためには素直過ぎてはいけないし、言う事を聞き過ぎてもいけない。自分の意見をはっきりと主張して行動で示す。相手はその反応で始めて変わる。時には全く変わらない場合もある。いずれにしても示さなければならない。

俺は日本人気質がなかなか抜けないのとそういう経験が浅かったため、オーストラリアでは常に相手を信頼して相手に任せた。でもそれで自分本位の結果が出なかった。

だから此処ニュージーランドでは相手にどう思われようと自己中で行こうと決心した。それが人間として良いのか悪いのかは今でもよくわからないが、結果は出た。

人間自分が一番かわいい。

自分の心に余裕がある人が初めて他人の立場になって行動してくれる。ここニュージーランドは少なくともそういった理想論を現実に当てはめてはいけないと俺は今でも思う。自分が少しでも面倒になることがあったら他人にさせる。これが現実。自分を助けるのはいつも自分だけ。彼を見ていると自分がオーストラリアに居たことを思い出した。だから俺は彼に「誰も信じるな。ビザを取りたいならまずは自分を信じる。そして一生懸命仕事する。おいしい話に乗ってはいけない。」と言った。

彼がどれだけそれを理解したかはわからないし、俺も理解できるわけはないかぁという気持ちで言った。人間、経験しないとわからないことばかりだし、人の言葉は案外響かないことの方が多いからだ。あれからもう3年経つが、彼はいまだに永住権を取れないでいる。きっと色々な経験をしているんだろうなと思う。でもそれが彼の経験値になって、きっと俺の言ったことを理解する日が来ると俺は信じてる。

俺はワーホリからワークビザに切り替えた。ワークビザに切り替えるには相当の数の書類が必要になり、事実上自分ひとりの力ではどうしようもないレベルの事もあった。そんな時俺はemployerやlawyer,自分の会社の人たちに懇願した。

 

何度も言う...。

 

人を信頼するのは良いが、期待してはいけないのだ...

 

事実、彼らは全くと言っていいほど俺の味方にはなってくれなかった。

 

俺はこれだけ人に期待するなとか、自分を信じろと言っておいて、全くそれらを実践できていないんだと自分自身にがっかりした。

これは本当にサバイバルゲームだった。。

そしてここから悪魔の6か月が始まった。

To be continued ..!